スノオヒト

自分の≪好き≫を大切に。自分の≪素材≫を大切に。

..【どんな世界を生きたいか】の手がかりを、意図せず少し気づかせてもらった出来事..

 

 

今日ある人に言われたこと。

 

 

「あなたは聞いてくれる人、認めてくれる人の意見ばかりを聞く。

それで否定的な意見は聞かない。でもいいことを言う人は利用しようとする人、もしくは無責任な人が多い。

 

あなたのことを思って口うるさく言う人のことを、

言われて耳が痛いのか、

『自分を変える』からと言い訳して聞かない。

 

自分の都合よくあなたを変えようとする人の言うことは聞く。

 

結果、あなたの周りにはあなたのことを考えてくれる人からいなくなる。

下心のある人が素知らぬ顔で残る。

男友達が多いのもそのひとつじゃないかな。

 

まぁ、でも、多分伝わらない。

これまでも伝わってないから」

 

 

ちーん…

刺さりました。

激しい怒りがわくとかそういうのではなく、

ぽかーんとした後に、じわぁっと涙が滲む感じ。

 

 

で、この出来事をまた別のところで話していて、

印象的な言葉をもらった。

 

 

「それは愛じゃないし、愛でもある。

あなたの愛はあなたが定義すればいい。」

 

 

もう、全てがすーっと溶けていく言葉だった。

そうだ、愛だ。

この冒頭の言葉を言ってくれた人はこの人の考える愛を私にくれたんだ。

ただ私の考える愛とはちょっと違っただけのこと。

その意味では愛ではない。

 

 

じゃあさ、私の愛って何?

そう、私の愛の形は私が決めればいい。

 

 

ちなみに私がこのブログを始めたきっかけは、

『自分と向き合うこと』

その日々の中で、今までのように誰かを愛することで自分を満たすのではなく、

《自分を愛することが誰かを愛することになる》ということを知った。

 

 

私の考える《愛》=《自分を愛する》こと=《ありたい自分である》こと。

私の愛の形は【ただ自分である】こと。

相手がどうかじゃない。

ただ自分はどうありたいか。

 

 

『自分がたとえどんなでも、この人は変わらず自分である』

そんな安心感にも似た空間。

そうあること、それが私の愛なのだ。

(※親子をイメージしてもらうと分かりやすいかも。

私自身特に娘に対してその愛をもって接したいと思う。)

※もちろん私の思う愛を愛と思わない人もいる。

 

 

あなたがたとえどんなであっても、私は私であるよ。

あなたがどんなあなたでもあなたがそれを望むならOK。

実は望んでなかったとしてもOK。

何でもOK。

言うなれば《全肯定》に近い感じ。

ただ私はその中で【ありたい自分である】選択をするのみ。

 

 

resuno-ohito.hatenablog.com

 

 

今までの人生で、自己否定なら散々してきた。

 

 

物分りのいいような、なんか全部わかったような顔をして、

その実内側で壮大な自己矛盾を抱え、

 

 

悩んでる誰かの相談にわかったような顔してアドバイスして頼りにもされて、

でも実際は何ひとつわかっていない。

自分が相談されてわかったようにアドバイスすることで

満たされない自分を満たす。

 

 

自分が好きなような、満たされてるような顔をして、

自己否定してることに自分で気づかないくらい自分自身をごまかす。

 

 

そういうのはもうこりごり。

 

 

頼りになんかされなくたって、何だこいつと思われたって、

自分自身が自分を一番わかってあげたい。

 

 

ただありたい自分であって、何だってOK。

私はとにかく否定が好きじゃないんだ。

 

 

【肯定の世界】を私は生きたいと思う。